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わたしの想い

私と従業員組合との出会い組合員(男性)

入行する前の支店長との面談で、「従業員組合には、絶対行ってはいけない。一生台無しになる。」そう言われ、私は、何の事かわからず、労働組合へ加入しました。 そこでは、組合らしい事など全くされず、組合員がいじめに加担するという極めて卑劣な組合でした。

その時ふと従業員組合の存在を思い出したのですが、周囲にそれとなく聞くと、 「従業員組合に行けば、もう出世する事はない。現に従業員組合の人は出世していない。 それでよければ、行ったらいい。3000人の従業員の中で、お前一人になる。」と言われました。 あーそうなのかと思い、その時は、移籍に至りませんでした。

それから何年かして、私は職場で大変ないじめに遭いました。私だけでなく、私の両親に対しても卑劣な事をするといった、考えられない事をされ続けました。 「解決方法教えてやる。辞表書けばいい。それか死んでくれればいい。悲しむのは、お前のあほな親2人だけや。」 こんな事を言われ続けたり、向う脛を革靴で蹴られるなど、本当に銀行員とは思えない暴力団のような事をされ続けました。 私は体調不良に陥り警察へ告発する事を考えました。もうどうしていいかわかない。もう本当にどうしよう。

毎日途方に暮れている時、「波紋」が机にあるのが目に入りました。 当時の組合員から、毎月もらって読んでいて、転勤後もずっと送って貰い読んでいました。 その頃は、周囲から「そんなもの読むな。おかしな人と思われる。」と言われていました。 ですが、私は「波紋」を見て従業員組合に行けば何かが変わる。助けてもらえるのではないかと思い、恐る恐る組合員に連絡してみました。

半年ほど密会を続け、ひどいいじめに遭っている事について相談に乗ってもらい、随分悩み迷った末、 当時の委員長の「従業員組合来て65歳まで働こう。死ぬまで一緒にいよう。」の言葉で、私は従業員組合へ加入しました。 そして、数々の職場交渉をして頂き、今私がこうして元気で働いているのも従業員組合のおかげだと思います。 毎日子供が元気一杯にランドセルを背負って登校して行きます。ランドセルをどうやって買おうと考えた時もありました。 あの時組合に変わっていなければこのような光景を見る事も出来なかったのではと、今ランドセルを見ながらふと思います。

一枚の波紋、それが私と従業員組合との出会い、そして後に私の人生観を変えるものなりました。 そんな思いを込め、今後も従業員組合の一員として精一杯頑張って行きたいと思います。

働きがい生きがいがもてる従業員組合車谷 ●●

従業員組合に入ったのは50歳を超えてからで、それまでは、第二組合に籍を置いていましたが、あまりにも大所帯で一組合員の悩みや労働条件要求などはなかなか聞き入れてもらえない何か空しい組織だと思っていました。 当組合加入のきっかけは、本部勤務時に長年に渡り懇意にしていただいていた先輩からの熱いお誘いを頂き、それまでの第二組合への無力感とも相まって、従業員組合への加入を決意いたしました。その時の先輩は、ご退職されましたが、今も親しくお付き合いをさせていただいております。

この組合に入って、感じたことは、私の話を聞いてくれることです。 労働に関するどんな些細な問題や悩みでも、従業員組合は真剣に聞いて頂き、ベストの解決策を全員が真剣に考えてくれるのです。 そのおかげで私はその都度、救われることができました。

また、組合員は少数ですが、家族的な雰囲気で何でもぶち明けられることが出来る仲間組織です。 更に、上部団体であります金融労連や県労連の仲間達とのふれあいもあり、諸々の悩みや楽しいことなどを率直に出し合う事が出来ました。 と共に、みんなと友情を深め勇気ややる気をもらうことが出来、私自身、大きな自信となり、本当に感謝しています。 これまでのうち沈んだ暗い世界から、打って代わり、従組のはつらつとした熱気ある組合活動に次第にとけ込むことにより、性格も前向きに物事が考えられ、明るくなってきたと自分自身、感じています。 これからも、労働者の皆さんが明るく働きがいのある職場で勤務出来るように、微力ながら、従粗の一組合員として全力を尽くしていきたいと思っています。

見えないもの(本質)への対応特別執行委員 小原 信夫

私は、滋賀銀行従業員組合に加入して13年になります。滋賀銀行には従業員組合と労働組合があります。昭和40年に銀行の組合攻撃により分断されました。

私は入行以来、労働組合に加入していましたが、組合運動にはあまり興味はなく、職場会議にも何となく出席していました。

従業員組合に加入したきっかけは2つの組合の方針が労使協調路線か、本当に従業員のために銀行と闘う組合かを考えたとき、 経営に対して切実な要求ができる従業員組合でなければ真の労働条件や生活向上は望めないと思いました。

金融機関は収益を重視するあまり労働強化や、メンタル不全、倫理的、人道的な問題その他、多くの課題を抱えており、銀行に社会的責任を果たすよう提言するのも組合の重要な役割です。従業員のために改善を要求し、実現した事例も多くあります。最近では高齢者再雇用を実現しました。身近な問題でもみんなの要求を具体化し銀行と交渉しています。

自分自身の人生においても現実や、見えるものについての判断や、対処の他、見えないもの、隠れたものに対しての物事の見方、考え方についても多くのことを収穫しました。

職場内のさまざまな事象、事故などは、氷山の一角であり、要求も含め道理を堂々と発言する組合に加入して本当に良かったと思います。

これまでの人生を振り返って中島 康隆

今年で47歳。思えば早いもので、今の組合で人生の3分の1を過ごさせてもらった。 組合経験年数としてはまだまだだが、振り返れば組合を替わったことは私にとって非常に良い転機だったと自負している。

何より、私自身が変わったことが大きい。考え方や価値観、人生観だけでなく、仕事への取り組み姿勢などすべてを変えてくれたのが組合であり、 全国にいる組合の仲間である。感謝してもしきれないぐらいだ。それまでの私は、好きなことは別にして物事に対して消極的な人間であったと思う。 その意味では、もっと早く組合を替わっていればという思いがないでもないが、過去を振り返ってばかりもいられない。 これから前を向いて、カッコよく言えば自分が仲間とともに道を切り開いていくのか、が次世代としての課題だと思う。

私は旅が好きだ。最近、歳をとったせいか(笑)暖かい地方へばかり行っている。その度に沖縄の仲間にはいつもお世話になっている。 今度は、逆に北海道へ行こうと思う。北海道の仲間からも、「網走の流氷は壮絶だ、ぜひ見に来なさい」と誘われている。今から楽しみだ。

お世話になるばかりでなく、私もお世話しなければ。ご招待とはいかないまでも、滋賀県を案内できればなあ。 もっとも、その前に滋賀県の観光案内が出来るようにならなくては。先に滋賀県を知るところから始めようか。 滋賀県の経済にも多少でも貢献できるかもしれないし。滋賀県の仲間にも呼び掛けてみよう。

組合と共に47年澤井 正

滋賀銀行従業員組合と同級生!

滋賀銀行に、従業員組合の前身である滋賀銀行職員組合が誕生した1947年に私も生まれました。私の年齢は組合と同じです。

組合は1961年に、「滋賀銀行の賃金や労働条件が見劣りする、企業内から一歩外に出て全国の仲間と交流し共に闘おうと『全国地方銀行従業員組合連合会』に加盟したそうです。

「新入行員のお茶くみ当番をやめさせよ、給料を他行と同じ水準に、年休・生休等休みを気兼ねなく取れるように」と当然の要求をみんなで話し合い、 銀行から独立して働くものの立場で組合活動を盛り上げていきました。

1964年、組合が成長し、組合活動の高揚を恐れた銀行は、組合の弱体化を狙って「全国地方銀行従業員組合連合会」から脱退するよう攻撃をかけてきました。 しかし正義と良識ある先輩労働者の団結が固く、銀行の介入を許しませんでした。

結成18年目の組合に対し、銀行は「1965年(昭和40年)11月18日の深夜、一部の行員を使って『滋賀銀行労働組合』を結成し最後の手段である組合分裂の攻撃をかけてきました」 この大きな節目の昭和40年4月に、私は18歳で滋賀銀行に入行しました。

労使対等の正常化協定で自信!

組合分裂以降1973年まで銀行は組合員差別を徹底し、不正常な状態が続きました。 組合は大津地方労働委員会や大津地方裁判で「不当差別の是正・職業病の業務上認定」の闘争を行い、組合が全面勝利し銀行はその否を認め謝罪しました。

この記念すべき労使合意を基礎に、労使対等、法律遵守、人間尊重の原則に基づいた正常な労使関係を堅持しました。 組合は要求や銀行提案については「常に全従業員の立場で対応」「銀行から独立し対等な話し合いを重視」「金融労連(地銀連)や滋賀県労連に加盟し、 仲間との交流・共闘を重視」を大切にして運動を展開してきました。

地域住民に役立つ銀行を目指す運動!

また地方銀行のあり方についても、地元から集めた預金を地元に還元することで、地域に貢献する銀行として生き続けられると主張してきました。

最近は投機マネーによる、米国型金融ビジネスモデルによりリスク商品の販売を行い銀行員としての誇りが無くなってきています。また非正規労働者を雇用の調整弁にする身勝手な横暴がまかり通っています。

新春懇談会において頭取に「経済でも平和の分野でも米国の一国覇権主義が終焉する情勢」を提言しました。 私は労使正常化の組合のポリシーと地域住民に役立つ地方銀行のあり方を提言する、滋賀銀行従業員組合と一致し、魅力を感じますますひかれていきました。

原発ゼロ!7.16の10万人集会に参加!

「ばいばい原発守ろうびわ湖」の仲間と一緒に、東京で開かれた「さよなら原発10万人大集会」に参加しました。 65歳の今も新鮮な感覚で職場や世の中を見続けたいと努力しています。テレビや新聞で企業トップが頭を下げて世間に謝罪していますが、失われた企業の自浄能力があれば発生しなかったと思います。

香川県の豊島から汚染土壌が搬入され、びわ湖周辺で水洗浄処理がされることが発覚し、白紙撤回になったことはご存じですか。私も和邇学区自治連合会の環境委員として署名を集めたり、2回香川県に出向きました。滋賀銀行はその水洗浄処理する企業を「儲かっており良い企業」として、行報誌「かけはし」で紹介しました。この良い企業が「環境破壊と住民生活に不安を」与えています。情報が入らないのか、意見が言えないのか、いずれにしても自浄能力が働かないことは疑問です。自分の意見や考えを言えることは大切なことで、企業にとっても必要な人物であります。また多くの人から意見が聞ける企業体質をつくることも大切だと思います。

組合の歴史と共に歩んだ我が人生に乾杯!!

退職後も65歳で書記長をしています。道理に基づいた闘う組合を盛り上げていくことは従業員の生活を守り、しいては企業をまもることにつながります。 18歳の新入当時、支店長から何回となく、喫茶店で従組を脱退するよう説得され、「どちらが働くものの立場にたつ組合なのか私なりに考えたい」と応えたことを思い出します。 その後、保証人の叔父を通じて「赤の組合に残っている」と言われ、母親に泣かれた事は、今も忘れられません。
また通勤に往復4時間以上かかる支店へ転勤を命ぜられました。自分に向けられた攻撃と泣く泣く労働組合に行く仲間を目の当たりにして、自分の出来ることは何なのかと考え、 1971年24歳で本部役員(執行委員)に立候補しました。それ以降、退職した今も書記長として、全従業員の生活と権利を守り頑張っています。

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